南原寺〜歴史

法灯1400年の霊山

美祢市−桜 山・南原寺の歴史

歴 史

当寺は瀬戸内、遠くは国東半島も一望できる海抜456M、美祢市、桜 山の九合目に位置し、神功皇后を草創、聖徳太子を開基、花山法皇を中興とする県内最古刹の真言宗寺院で、寺伝によると聖徳太子が仏教を広める為、諸国の霊地を選んで46ヶ寺を建立されたその内の1ヶ寺といわれ、難払寺、難波羅寺、又は難波羅密寺と称していた。

神功皇后、三韓征伐(4世紀前後)の折、瀬戸内を御通行の皇后は、北の方角の山麓から不思議な光明がしきりに差しているのをご覧になり。武内宿祢を遣わし、この地を調査、光明は自然石の中から盛んに光りを発していた。皇后はそのことを知り「これは瑞兆である」と喜ばれた。皇后はこの山に登られ、光明が出ている岩に宝剣を納め「永く夷敵の難を払い給え」と誓願され、この地において三韓征伐の軍議をされた。軍議は平たい大きな岩( 評定岩 )の上で行われた。側には桜の大樹が見事に咲き誇っていたので、皇后は「あら住吉の桜山かな」と喜ばれたという。それから楠町船木において楠の大樹で軍船を建造、軍備を増強し出兵されたという。

後に聖徳太子は全国に46ヶ寺の寺院を建立するにあたり。この地を聖地の1つと定め寺院を建立(593年)、当山と神功皇后の故事に因んで、 「難を払う寺」として「難払寺」と名付けられ、山号は 「桜 山」 となずけられた。
後に役行者や弘法大師も留錫され周囲仏閣は三十有余と修験道、密教の聖地として寺運の隆盛は栄華を極めていたというが平安期にはさびれていったという。

その後、正暦2年(991)諸国巡歴の途に掛錫された花山法皇は衰退していた寺運を再興され寛弘5年(1008)2月8日、御年41歳、当寺に於いて崩御されたと伝えられている。 以来国家の祈祷所として歴朝の尊信篤く、特に四条天皇(1232〜42)は綸旨を下して近隣の里を多く寄進され東厚保、大嶺、伊佐、於福、秋芳にわたり多くの寺領を有した。

建武2年(1332)佐々木直綱による花山法皇秘密法会の供養田など多くの寄進により益々栄え、当時は里に阿弥陀堂、法華堂、地蔵堂、鳴滝寺、光照寺、御影堂、小杉寺等多くの寺領と末寺を有し、山内には西の坊、東の坊、中の坊、上の坊、谷の坊、中谷坊などの諸堂宇が散在し末寺を含め周囲仏閣は124坊を数えるに至り、※長門三山 ※長門四峰と呼ばれた。

又長門の国の鎮護寺として大内家代々の祈願寺としての庇護を受けた。山内の鎮守である日吉山王権現は山内に七社、里に七社の社を持ち、美祢郡中大田宰判と下関吉田宰判内の総鎮守としての権威を持っていた。

宝永2年(1705)頃には、長門三十三観音霊場が開創され、当寺観音堂は17番の札所となり、この頃より明治初期まで善男善女の列が桜山の参道をにぎわせたという。

以来1400年の間、時世の変遷につれ、又幾多の災害により諸尊、宝物を焼失するなど栄枯盛衰を経て今日に至っている。

山中には坊の跡、祭祀遺跡、経塚群、古墓群など点在し、遺物も多く出土し往時の勢力を窺い知る事ができる。

※長門三山 桜 山・南原寺 松嶽山・正法寺 華山・神上寺
※長門四峰 桜 山・南原寺 松嶽山・正法寺 華山・神上寺 利生山・永福寺


〒759-2222 山口県美祢市伊佐町南原 桜 山 南原寺
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